『めぞん一刻』と「青葉繁れる」

井上ひさしの小説「青葉繁れる」は、1950年ごろ、高度成長を迎える前の戦争直後の青春をコミカルに描いた物語です。 仙台を舞台にした小説で、当時の日本の姿がよく描かれている同時に、今からみると物すごく情けない青春時代が、コミカルに描かれています。
作者の井上ひさし自身の青春時代を元にしているようです。だからか、当時の雰囲気がリアルに伝わってきます。
1974年にTV化、同年に映画化もされています。
高橋留美子先生は「青葉繁れる」のファンだったみたいです。それもラムちゃんの「だっちゃ言葉」が、この作品から取られている位です。
それだけじゃなくて初期の2作品『うる星やつら』『めぞん一刻』の世界観そのものに大きな影響を与えているように感じます。
「苦学生」のステレオタイプ
『めぞん一刻』が連載されていた1980年台には、既に「苦学生」は居なかったと思います。
私は1990年代の大学の時は実家から通っていましたが、一人暮らししている友人は、普通の木造アパートに住んでいました。別に暗い大学生活というわけではなく、毎日カップラーメンってほどひどい食生活でもなく、サークルに入ったりして普通に楽しく過ごしていたような気がします。
でも『めぞん一刻』の主人公五代は明らかに苦学生。大学そのものは私のころと大して変わりませんし、五代の友人たちは普通の生活だけれど、五代だけは苦学生のイメージで描かれています。
貧乏学生
私の親の世代なら苦学生はたくさん居たようで、すごく狭い三畳しかない部屋で暮らしていた、などの話を聞いたりしました。(その点、一刻館はさらに前の戦前の建物なので、広い間取りになっています。)
ちょうど高度成長期にあたり人手が足りなかったんです。社会人になって東京に出てきた人も多く、田舎から集団就職して東京に集まってきたというわけです。
苦学生というと東北方面から来ていた人が多かったみたいです。しかも新幹線も未開通なので、本当に汽車でかなりの時間をかけてやっと東京に出てきていたようです。『めぞん一刻』のTV版アニメは五代のばあちゃんが汽車で上京するシーンがあります。1980年台はもうSLは走ってなかったですけどね。

(第5話「春遠からじ」)
その後、1970年台にオイルショックがあったりして、景気が悪い時期と良い時期が交互にありますね。
1950年、1960年台だと高度成長期前でもっと貧乏だったと思います。以下は平井和正「めぞん一刻考」からの引用です。
そんな青春像が「青葉繁れる」にはコミカルに描かれているんですね。
妄想癖、「押し倒す!」
「青葉繁れる」は、それより10年以上前の話で、さらに日本が貧乏だった時の物語です。「青葉繁れる」で描かれているのは男子高校なのですが、ほとんど女学生とは縁がない落ちこぼれの四人組がでてきます。その中の一人である主人公は妄想癖があって、女の子とすれ違うたびに色々妄想します。
途端に稔は北海道の原野を久保幸江に似ているその女の子と手をつなぎながら歩いている自分を想像した。
<中略>
それを機に、自分は草の上に彼女を押し倒してしまうはずだ、、、
娘はありったけの力で稔から逃れようとするに違いない。
<中略>
だがその時は、「両方の親が承知しているからいいだろう」と言い張って彼女のスカートから決して手を離してはならないだろう。
そして、優しく、かつ猛々しく彼女の上にのしかかるのだ。つまり、それが男の仕事なのだ。
つまり、『めぞん一刻』でよく出てくる「押し倒す!」というのはここから来てるんじゃないかと。
作品中では、友人デコが一回そんな感じのことを本当に実行してしまいます。でも相手は既に警戒していて、水着を着込んでいたという…
他にも色々な珍事件を巻き起こします。
ヒロインの「若山ひろこ」
女子校と合同の演劇部で「若山ひろこ」というヒロイン役が出てきますが、この人も途中で突然退学して失踪(しっそう)してしまい、最後で「十代のあやまち」という"性典映画"のポスターで若山ひろこがデビューするのを見つけます。
ヒロインが性典映画に出演って、、いくら情けない青春像とは言え残念な感じですね、笑
まとめ
『めぞん一刻』の五代が、たまにセクハラまがいのことをやらかすのも、こういう性に未成熟な苦学生の世界観を取り入れているからかも知れません。
この世界観に若山ひろこみたいな現実的な女の子でなくて、宇宙からラムちゃんらを降臨(こうりん)させれば、『うる星やつら』の世界観になるかも?
ちなみに、五代のような情けない主人公が出てくる作品は『めぞん一刻』までで、『らんま1/2』以降は普通にイケメンが主人公になってますね。